昨年の春
書きかけのまま下書きに残っていた日記。
あれから1年以上が過ぎ、私の周りの時間は確実にさらさらと流れ落ちています。
4月17日 2013年
春は確実に冬を払拭していくようです。
豪雪で水場に困っていた白鳥もやっと溶けた田圃で羽を休める光景に出会えるようになりました。
月曜にはハウスのビニールも上がり、種まきまでのカウントダウンが始まりましたが、
この忙しい時期に私は札幌....。
母が先月末に吐血して倒れ、入院。昨日は手術でした。
入院してから症状は落ち着いたものの、検査の結果は胃ガン。
食道に近い部分にわりと大きくできており、とりあえずは他の転移が認められないということで、手術となりました。
よくありがちな病気だけに、病院嫌いな母とはいえ定期検査に引っ張ってでも連れて行くべきだったと後悔(;´Д`)
倒れた時も、幸運なことに、たまたま母は友人と電話しており、異変に気づいた相手の方が連絡してくれたのでした。
しかし、連絡してくれたものの、同居の末っ子はマンションから離れた大学、近くに住む叔父夫婦も外出中。駆けつけて手を尽くしてくださったのは同じマンションに住む叔父の友人と、民生委員の女性でした。
遠くの身内より近くの他人・・・まさにその通り。
そんなこんなで昨日はついに手術日。
不安げな母は午後1時にオペ室へ入り、延々と終わらない手術。執刀医に呼ばれたのが夜の8時半でした。
外科医というのはなんという体力と精神力の持ち主でしょう。
そういえば 10数年前、やはり癌だった父を手術してくれたのは当時60歳を過ぎた父の友人でしたが、約7時間に及ぶ手術を成功させ、その後説明を終えて「全部取った!やり残し無し!後は本人の頑張りだ、ワハハ」と笑って、直後にグッタリ寝ていたのを覚えています。
ガッチリした体格の良い、背の大きな先生でした。
今回は40前かそこそこの、やはり背の高いドクター。
外科手術というものは集中の切れない格闘技みたいなものでしょうか?
それにしても、親というものは、特に母親というものは不思議なことに、いつまでも元気でいるような錯覚に落ちています。
父も送った経験から、歳をとれば病気もするし、いつか先に云ってしまうことはわかっているはずなのに
今回も、手術さえうまく行けば少しは弱っても、また元気に暮らせるだろうと当たり前のように思っていました。が、術後の先生の顔は暗く、それが疲れだけではないことに、私は先生の言葉を聞くまで全く察することができませんでした。
・・・順調に進んでいた手術。それが後半残り1/3というところで、腹膜にパラパラと針の先ほどの
こぼれ落ちがみつかったそうです。
CTにも写らないほどの小さな粒つぶ。
ステージ2から一気にステージ4へ
進めた手術は引き返せません。
どの道このまま進めば胃は腫瘍で食べ物の通り道を塞ぎます。
胃の摘出、食道と腸との縫合。他は一切触れずに閉じられました。
10年前の交通事故の後遺症で、重い記憶障害になった母。それでも数万人に1人という回復力で、自立した生活を送れるようになった母。
その底力の源は、天性の明るさ。
ドクターは
「僕は、癌は早期だろうと末期だろうと患者さんに告知しています。隠した所で患者さんが一番自分の体をわかっているし、治療に当たっても、ご本人の協力は欠かせないですから。
でも、今回、お母さんへの告知にメリットは無いと思いました。
食べたい食事。やりたい事、行きたい所、そんな明日を楽しみにしながら毎日を過ごさせてあげる事が一番だと思います。
抗がん剤の説明をして頂いた後も、抗がん剤は奨めないと
本来ならばあるはずの食事指導も、「食べたいと思うものを食べさせてあげて下さい」と
もし、自分の親なら、僕はそうします。と。
ああ、この先生で良かった。
動きを止められた心臓が何か暖かいもので包まれた気がして、
私は目を見開いたまま、うなずく以外に言葉を発することもできず、ただ胸の奥が熱くなりました。
書きかけのまま下書きに残っていた日記。
あれから1年以上が過ぎ、私の周りの時間は確実にさらさらと流れ落ちています。
4月17日 2013年
春は確実に冬を払拭していくようです。
豪雪で水場に困っていた白鳥もやっと溶けた田圃で羽を休める光景に出会えるようになりました。
月曜にはハウスのビニールも上がり、種まきまでのカウントダウンが始まりましたが、
この忙しい時期に私は札幌....。
母が先月末に吐血して倒れ、入院。昨日は手術でした。
入院してから症状は落ち着いたものの、検査の結果は胃ガン。
食道に近い部分にわりと大きくできており、とりあえずは他の転移が認められないということで、手術となりました。
よくありがちな病気だけに、病院嫌いな母とはいえ定期検査に引っ張ってでも連れて行くべきだったと後悔(;´Д`)
倒れた時も、幸運なことに、たまたま母は友人と電話しており、異変に気づいた相手の方が連絡してくれたのでした。
しかし、連絡してくれたものの、同居の末っ子はマンションから離れた大学、近くに住む叔父夫婦も外出中。駆けつけて手を尽くしてくださったのは同じマンションに住む叔父の友人と、民生委員の女性でした。
遠くの身内より近くの他人・・・まさにその通り。
そんなこんなで昨日はついに手術日。
不安げな母は午後1時にオペ室へ入り、延々と終わらない手術。執刀医に呼ばれたのが夜の8時半でした。
外科医というのはなんという体力と精神力の持ち主でしょう。
そういえば 10数年前、やはり癌だった父を手術してくれたのは当時60歳を過ぎた父の友人でしたが、約7時間に及ぶ手術を成功させ、その後説明を終えて「全部取った!やり残し無し!後は本人の頑張りだ、ワハハ」と笑って、直後にグッタリ寝ていたのを覚えています。
ガッチリした体格の良い、背の大きな先生でした。
今回は40前かそこそこの、やはり背の高いドクター。
外科手術というものは集中の切れない格闘技みたいなものでしょうか?
それにしても、親というものは、特に母親というものは不思議なことに、いつまでも元気でいるような錯覚に落ちています。
父も送った経験から、歳をとれば病気もするし、いつか先に云ってしまうことはわかっているはずなのに
今回も、手術さえうまく行けば少しは弱っても、また元気に暮らせるだろうと当たり前のように思っていました。が、術後の先生の顔は暗く、それが疲れだけではないことに、私は先生の言葉を聞くまで全く察することができませんでした。
・・・順調に進んでいた手術。それが後半残り1/3というところで、腹膜にパラパラと針の先ほどの
こぼれ落ちがみつかったそうです。
CTにも写らないほどの小さな粒つぶ。
ステージ2から一気にステージ4へ
進めた手術は引き返せません。
どの道このまま進めば胃は腫瘍で食べ物の通り道を塞ぎます。
胃の摘出、食道と腸との縫合。他は一切触れずに閉じられました。
10年前の交通事故の後遺症で、重い記憶障害になった母。それでも数万人に1人という回復力で、自立した生活を送れるようになった母。
その底力の源は、天性の明るさ。
ドクターは
「僕は、癌は早期だろうと末期だろうと患者さんに告知しています。隠した所で患者さんが一番自分の体をわかっているし、治療に当たっても、ご本人の協力は欠かせないですから。
でも、今回、お母さんへの告知にメリットは無いと思いました。
食べたい食事。やりたい事、行きたい所、そんな明日を楽しみにしながら毎日を過ごさせてあげる事が一番だと思います。
抗がん剤の説明をして頂いた後も、抗がん剤は奨めないと
本来ならばあるはずの食事指導も、「食べたいと思うものを食べさせてあげて下さい」と
もし、自分の親なら、僕はそうします。と。
ああ、この先生で良かった。
動きを止められた心臓が何か暖かいもので包まれた気がして、
私は目を見開いたまま、うなずく以外に言葉を発することもできず、ただ胸の奥が熱くなりました。
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